レジャーシリーズ Part2・ニシンと港
株式会社エコニクス
顧問 北村 章二郎
漁港は漁業生産の基地である事から、漁業の歴史と共に急速に整備されてきたが、特に日本海側の漁港はニシン漁業との関わりが大きい。漁業は慶長年代に漁場開拓団によって調査開拓され、以後拡張されました。慶安年代には既に瀬戸内海沿岸諸港や四国、中国方面への海産物の物流が始まりました。ニシンは嘉永年代から漁獲されていたが、本格的な漁は建て網が開発された明治初期から大正の中頃迄で、ニシンの漁獲量は石(こく)で表わしていました。
当時は漁港等はなく、漁業に使う船は無動力の川崎船でやん衆が櫂(かい)を漕ぎ、船頭が櫓(ろ)を漕いで漁をし、沿岸の入江を利用して船を繋ぎました。時化や嵐の時は前浜に船を引き上げて災害から船を守ってきました。すべてが人力なので大変な苦労であったと思われます。
ニシン漁が本格的になってくると、網元の親方は条件の良い地先を選んで私財を投じて船やニシン袋を入れる船入れ澗(袋澗)を築きました。船入れ澗のみでなく親方家族や漁夫達が寝泊りする、今で言うニシン御殿、みがき、数の子、魚粕食料等を保管する倉庫や石倉まで造り、それに漁業の守り神を祭る神社やお寺を数人の親方で築きあげ、漁業と村の繁栄を祈願したものです。また、トンネルを掘り交通網を切り開いたりして漁村のあらゆる面に対して大きく貢献し、ニシンが社会経済に尽くした功績は計り知れないものがありました。
当時は、海産物や生活用品の運搬は辨財船で本州、四国方面にまでおよび、その辨財船は船入れ澗の沖の岩場に大きな石造りの繋船柱を埋めて、そこからもやい網を取って数隻も繋留したそうです。
このように、ニシン漁は巨額な財力を残した上に地域社会や北海道の経済に大きく貢献しました。袋間の名残りや、今では数少ないニシン漁全盛時代の豪壮な建造物となったニシン御殿は往時の繁栄を忍ばせ、ニシンの力が如何ほどであったかを思い出されます。